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これまでの話5

運び込まれた病院の先生は手を尽くしてくださいました。 父の心停止後、救急車に乗せたものの、受け入れ先がなかなか見つからず

脳に血がいかない状態が続いたことだけが悔やまれます。

8月23日の午前4時頃に病院について、それから父の死亡が

宣告された26日の午前4時5分までの記憶。

とても長い3日間の記憶は鮮明で、その先の遺族として

告別式を終えた8月29日までの記憶はひどくぼんやりしています。

出張も多く、付き合いも多かった父の偉大さは、亡くなって初めてわかるものでした。

葬儀では1000人を超える方に見送っていただき、法事の度に父の話をいろんな方から

いろんな角度から聞かせていただくことで、父のことが少しだけわかったように思います。

生きていれば、卒業後の事や人生設計について

社会人の先輩後輩としていろんな話をしたかったところですが、それは叶いませんでした。

代わりに、大きな背中を見せ付けられて「おまえはどう生きるんだ?」と

限りある時間の過ごし方を、強烈に考えさせられました。

その後は卒論に追われつつ、地域活性化協力隊、プロジェクト未来なはの活動も続けつつ

まちぐゎー情報広場じんぶん缶という調査事業のようなものにも関わらせていただき

各種委員の活動まで慌ただしく過ぎていきました。

大学卒業後はどうしようか。

そんなことを考え始めてからずいぶん時間が経ったのに就活らしい就活は出来ていませんでした。

気乗りしないまま参加したセミナーでは講師に

間違えられるという経験をしたのもいい思い出です。(そうか?)

商店街の人と一緒にまちづくりができる仕事。

まちを元気にする仕事。

いろんな人に会える仕事。

それに加えて、どんな政治家になりたいか?というところで

「民間企業で働いた経験がある人」という私の希望もあったので

公務員ではなく印刷会社の営業職を希望しました。

印刷・広告なら業種を問わず関われるし、商店街のエリア情報の発信から個店の広告まで

それぞれの努力を「伝える」ということを「仕事」にできると思ったわけです。

メールを送って採用試験をずーーーーっと待ってたのですが12月11日にようやく試験。

12月21日に内定をいただきました。

政治家としての一歩の前に、社会人としてしっかりやれなければ、政治の道も遠のいて当然。

営業マンとしてしっかり働いて必要とされる人材になることが当面の目標になったのです。

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